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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第64回 入出二門偈

(23)凡夫のまま凡夫でない

次いで善導大師のところで、「煩悩を具足せる凡夫人、仏の願力によって摂取をう、この人は凡数の摂に非ず、是れ人中の分陀利華なり」とあります。「煩悩を具足せる凡夫人」というのは、善導大師の往生礼讃のことばから来ております。そこにはこう言ってあります。これは善導大師後自身の、深い懺悔の心をあらわされた言葉でありますが、「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根(ぜんごん)薄少にして三界に流転して、火宅をいでず」といわれています。煩悩というのは我執がもとになって、いらぬ事や思うてならぬことを思う心がおこることであります。

人間というものは面白い仕掛けになっているもので、自分の起こした心で自分が苦しんでいるのです。自分を煩わし悩ます心、それで煩悩といいますが、それを完全に身につけているのが具足(ぐそく)ということであります。善根というのは自分を安らかにしたり、満たしたりするものですが、それはごく僅かしかない、薄くかつ少ない、それだから迷いのない世界をあちこちうろついて、火の燃えるような苦しみの世界から逃れることが出来ないと言われるのであります。

そういう、自分でどうしようもない人間を救いたいのが仏のお心を本願と言いますが、本願のはたらきが南無阿弥陀仏となって私たちにはたらく、それを願力ともします。その願力によて仏の光を頂く、それを摂取といわれますが、仏の光が頂けると自分というものにめざめることが出来るのであります。自分に目ざめたことを信心と言いますが、この入出二門偈の異本には仏の願力によって「信を獲得す」となっております。仏に救われるということは、自分に目ざめることと同じなのでしょう。

次の言葉が大切です。「この人は凡頌の摂(ぼんじゅのしょう)に非ず」この人は凡夫の仲間(数)に入らないということであります。言葉そのものは、たしかに善導大師のお言葉なのですが、それはこういう使い方になっています。「この世の中で苦しんでいない者はない。若し苦しみのない人がいたら、その人は凡夫の中には入らない人である」こういわれているのです。ところが親鸞聖人はこの言葉を、仏に救われたら凡夫でない、という風に使われているのであります。

これは凡夫をやめて凡夫でなくなったということではありません。凡夫だけれども凡夫でない、どこまでも凡夫だけれどもそこに仏があらわれている、だから単なる凡夫ではないということなのでしょう。そういう人を人中の分陀利華(ふんだりけ)というのです。これは善導大師が力を入れて解釈された観無量寿経の終わりに出てくる言葉で、「若し念仏する者は、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」とお釈迦さまが言われたのです。分陀利華とは蓮華のこと、泥の中に咲くけれども、泥にしまず、清らかに、しかも立派に咲く蓮華に、念仏者を喩えられたのですが、言いかえて妙好人ともいわれています。

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