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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第65回 入出二門偈

(24)今ここの一念に摂取が

善導大師のところ、最後に結びの言葉として、「安楽土に到れば必ず自然に、即ち法性の常楽を証せしむ」といわれています。これはやはりもとは善導大師のことばでありますが、それは「此の穢身を捨てて即ち彼の法性の常楽を証ずべし」となっております。それを親鸞聖人は「案楽土に到れば」とかえられて、その上に「必ず」という言葉と、「自然(じねん)」ということばをつけ加えられているのであります。

これは、善導大師のお言葉からだけうかがいますと、命が終わって後ということだけに受けとれるふしもあります。そのために「必ず」とか「自然」ということばをつけ加えられたのでしょう。ここで自然といわれるのは、願力自然といって、本願を頂くならばそこに仏の力がはたらいて、その力によって必然的に、間違いなく法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を身につけることが出来るといわれるのであります。

法性の常楽(ほっしょうのじょうらく)というのは、法性はものがもののごとくあるといって、ものの本当のあり方を言います。言いかえれば一切があるべき姿になっておさまった世界、涅槃(ねはん)のことでもあります。それは永遠であり変わることなく、迷いから来る苦を離れていますので常楽と申します。結局、世界からいうと涅槃の世界に至ること、我々についていうと仏に成るということであります。

この言葉の前に「煩悩成就せる凡夫人、仏の願力によって摂取を取る」とありました。続いてその摂取を獲た人のことを、この人は凡夫の仲間に入らない。分陀利華であり、最勝人であり、妙好人であると言われてありました。そこから続いています。だから「案楽土に到れば」とありますが、この言葉は、「若し・・・・すれば」という仮定のことばでなく、信を得たことにたって、もうそこに浄土開け、そこに法性の常楽を証することが即している、必ず間違いなく約束されているということであります。

「必ず」「自然」ということは他力を示したことばであります。自力なら人間の力ですから必ずという保証はありません。若しかしたらという程度でしょう。仏の力で仏になっていく、ここに念仏の道のたしかさがあります。仏の願力によって摂取されたものの上には間違いなく仏の力ははたらくに違いありません。

信の一念をはなれるなら、現在もなくまた未来もありません。法性の常楽を証することは、たしかに未来でありましょうが、現在の信の一念の中に包まれている未来でありますから、現在と別な未来では決してありません。全く現在と別な未来なら、未来ということも言えぬでしょう。結局は信の一念にすべてが即しているということ、一点を押さえれば一切にひびく、そういう関係が即という字で示されています。信の一念に摂取をえ、そこに分陀利華と呼ばれるような人間が生まれ、本当の世界が開かれてくることを示されたのであります。

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