1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第7回 高僧和讃

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第7回 高僧和讃

民衆と肩組む高僧方 言行一致、独自性(オリジナリティー)の人

印度には数多い菩薩がた、中国にはあまたの高僧たちが出られました。にも拘らず親鸞聖人が、印度では竜樹・天親の二菩薩、中国では曇鸞・道綽・善導の三高僧、わが日本では源信と源空(法然上人)のお二人、合わせてわずかに七人の方を、わが真宗の祖師(七高僧)として選ばれたのは何故でしょうか。その理由として昔から次の三つがあげられています。

先ず第一に、自ら筆をとってお書きになったものがあるということです。こういうことを申しますと真宗は賢い人でなければ入れないのか、という疑問がおこりますが、そういう意味ではありません。たしかに七高僧は今で言うインテリ、学問のすぐれた方ばかりであります。

どの方を見ても、仏教界の代表者ですが、しかし他の高僧がたと違うところは、私たち愚かなものに対して、君たちは間違っている、こうしなければならないのだと、高いところから教訓を垂れ手本を示すような知識人でなしに、私たちと同じところに身を置き、私たちと同じように迷い、そして念仏によって目覚められた方、そこからどんな愚かな者でも肯くことができ、どんな賢い人間も肯かざるをえないのが本願であることを、身をもって示し、そのことを著作をもってあらわしていられる方々であります。

次に第二番目には、発揮説があるかどうかということで宗祖がきめられたであろうと言います。発揮というのは、その時代その社会、それぞれの場所で本願のまことを証明されたということでありましょう。本願は永遠のいのちであります。無限のものでありますから、従ってこれだけのものということはありません。これだけのものというのは死んだものでしょう。しかし無限のものを無限といっても無限にはなりません。その時その時に或る人を通して輝いている、その輝きが発揮ということで、これがなければ人真似になってしまいます。各祖師はその時その場所で夫々自分一杯を生きられ、そこから本願に遇われたその救いを、自分自分の独自の形で示していられますが、その全体が本願の光なのであります。

第三番目には解行相応ということが言われます。解は了解、わかるということ、行は行うということで、それが一致するのを相応と申します。私たちはえてして頭で分ってもそうなれないということがあり、或は内の心と外のあらわれが違っていることがあります。

七高僧がたは、念仏の道は間違いなく救われる道であることを了解され私たちにもすすめていられますが、自らも念仏申していられるのであります。このことは、これらの方々のどの著書を見ても、そこに深い信仰告白と懺悔が貫いていることが証明しています。七高僧についてのこの和讃は宝治二年(一二四八)、宗祖七十六才の時に御草稿ができ、建長七年(一二五五)御齢八十三才の時に手を加えて清書されたものであると、言われております。

▲ ページの上部へ