1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第8回 正像末和讃

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第8回 正像末和讃

人間の絶望の時こそ 念仏申さんとの時

すでに浄土三部経を中心にして、世界(浄土)という形にまで開かれた本願成就の阿弥陀仏の功徳を、浄土和讃として讃えられ、更に七高僧の教えを通して、本願の宗教が何時でも、何処でも、どんな人でも、それにあうことによって救われて来た事実を、高僧和讃に歴史として示されました。これによって和讃の御製作は一応完成したように見うけられるのでありますが、その上にこの正像末和讃ができましたことについての理由が、聖人御自身によって示されているのであります。

それは康元二年(八十五才)二月五日夜あけがた近く「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」という夢のお告げを受けられたということであります。従って聖人はこの和讃を正像末和讃の巻頭に掲げ、そのあとに「この和讃をゆめにおほせをこふりてうれしさにかけつけまいらせたるなり」(御草稿本)と書きそえていられます。

夢というと現代人には何か当てにならぬもの、怪しいものという考えがつきまとうでしょう。しかしそれは理性というものを最高のものだとする立場から夢を考えるのではないでしょうか。理性は小ざかしいことを考えたり柄にもないことを思いますが、それよりももっと深いところにある本心、夢はそういうものをあらわしているのです。従って夢告というのは、聖人の心の一番深いところに憶念せられてあったものが、夢の形であらわれたと考えるべきでありましょう。

念仏の信心によって私たちが救われるということは、世界と歴史が与えられることであると浄土和讃や高僧和讃で教えられています。私たちの住んでいるところを世と申しますが、世は我執によって閉されているところそれを破って開かれた世界が浄土であり、だから光であらわされています。歴史というものは、そういう浄土を開く道(実践)が、その道を歩まれた人々によっていよいよ確かなものとなったのでありますから、私たちがこの道を与えられたということは歴史を賜ったことであり、このように世界と歴史が与えられることが摂取不捨の利益でありましょう。

ただ問題はその利益を頂く時であります。観経には念仏すれが摂取不捨と示されていますが、何時救われるかが分りません。聖人はそれを歎異抄に「念仏もうさんとおもひたつこころの発る時」と時を示されています。人間が念仏申さんと思い立つのはどんな時でしょうか。それは人間の世界に見込みをつけることの出来なくなった絶望の時でありましょう。だからこの和讃は「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」で始まるのであります。しかしこの悲泣は縁となり、そこに深い懺悔を通して、仏法衰滅の悲劇を縁としてあらわれた本願の仏法に遇うことによって、世界と歴史を賜ることが出来た、その感激を恩徳讃で結ばれるのであります。

▲ ページの上部へ