| |
 |
| |
| (4)初めての本廟再建志の集銭 |
| |
 |
| 最初の本廟再建への対処を記す 『名古屋別院東御坊古記録控』 |
| |
二日講・九日講は古くからあった尾張御坊を代表する講であった。両講は御堂講と称されるように、尾張御坊の護持にあたることを主な役割としていた。そのため、天明8(1788)年1月に思いがけず起こった初めての本廟焼失には、両講ではなく、まずは二十五日講が再建志の集銭役を担当することになった。この二十五日講とは、丹羽・羽栗・中嶋三郡の十か寺を中心に結ばれていた講であろうかと思う。『名古屋東御坊記録控』によると、本廟罹災後の同年夏に本山で早くも再建手斧始が行われたことに際し、尾張御坊では、参詣する門末に対する再建懇志集め役を指名したという。その集め役に二十五日講が選ばれた経緯は不明であるが、以前から本山護持講としての性格を有していた講であったのではないかと考えられよう。
御坊本堂内で初めての本廟再建志を集銭するにあたり、二十五日講は二日講に倣って矢来内の西側の辺りに詰所席を設け、そこで参詣者からの懇志を受けようと考えた。しかし、御坊護持を主目的としてすでに詰所席を得ていた二日講は、これを許さなかった。本廟再建志納が突然に割り込む事態に遭遇して、既得権の確保の思いと、二通りの志納の混雑、奪い合いを恐れたのであろう。講中間に思惑の違いが生じたのであった。やむなく、二十五日講は飛檐の間の西側辺に詰所を設けて再建志を扱うことになったという。
ここでの二十五日講の役割は、御坊の参詣者からの集銭を受け持つ、文字通り集め役であり、二十五日講所属の門徒自体が再建志を請け負うものではなかった。とはいえ、集銭役のそれだけに徹したとは思い難く、講員はまた率先して、積極的に本廟再建のための懇志を励み、丹誠したことであろうと想像されよう。初めての本廟焼失は、尾張門徒にとっても初めて経験する緊急事態であり、尾張御坊の護持組織が確立しつつあったなかにおいて、新しい護持組織の形成を余儀なくされることになり、そこには一時的にも思惑の混乱が生じたのは無理からぬことであった。
|
| |
| |
| ← 前ページ | 次ページ → ⇒目次 |
| |
| 「教えて真宗!」一覧 |
|
|
|