(6)初めての焼失後ご再建への助成
 
今も続く尾張門徒講の本廟奉仕の一端、12月のお煤払いに使われる大団扇
 
 思いもかけない両堂焼失に遭遇した本山は、その天明8(1788)年の11月11日、河内八尾大信寺(現八尾別院)旧堂を移設することによってご真影遷座式を営み、これを仮御影堂として同月の宗祖ご正忌報恩講に臨んだ。勤修を終え、年明け正月下旬には元号が寛政と改まり、3月には御影堂再建作事の起工にこぎつける。一般に、作事は起工時に事業名称が定まるが、この時の作事は寛政度ご再建と称された。
 翌寛政2(1790)年、徳川幕府が両堂再建のために飛騨の御用林を寄進し、これが起爆剤となって一気に諸国門末による助成への気運が盛り上がった。同年、尾張においても担当の二十五日講が本山再建志を集めて本山に上納しようと計画した。尾張御坊の参詣者からの集銭を目指したようである。「(4)初めての本廟再建志の集銭」で触れたように、これには、尾張御坊の御坊所諸役人衆の抵抗があった。御坊への志納の減少や両方の事務の混雑を懸念することを理由に、賛同決議が得られない事態が起こった。そこで解決策として、本山を通し、本山から寺社奉行所へ願い出て、尾張御坊本堂での再建志の集銭を二十五日講中に申し入れる形をとった。それは奉行所に聞き届けられ、奉行所の沙汰(決定命令)によって集銭が可能となったのであった。新たな事業を始めるための労苦はここにもあったといえよう。
 こうして、本山ご再建のための志納集めが公認され、ご集銭箱が本堂内に設置されることになったが、いわゆるおひねり(紙包み銭)は御坊の御堂賽銭として扱われ、矢来の内側に差し出された分についてご集銭箱に入れることになった。この志納銭は毎月28日に御台所(御坊事務方)で集計事務を行い、勘定所(会計方)で一時預かった上で、その月の最終日に二十五日講世話人が自ら本山に持参し、丁重に上納した(以上の経緯は『名古屋東御坊記録控』による)。
 法義の相続のためとはいえ、尾張御坊の維持に加え、思慮にはなかった本山再建助成を併せ抱えることになった尾張門徒と御坊の人々に想いをめぐらせてみれば、一時的ではあったが困惑は一通りではなかったことであろう。
 
 
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