(11)尾張門徒・棟梁の直接参加の始まり
 
御影堂大屋根模型
御影堂大屋根の端部(妻側)の模型 縮尺1/10 『両堂再建』(東本願寺出版部)
 
 最初の両堂焼失以降、諸国門徒・末寺の再建への熱意と助力の援護によって寛政10(1798)年に再建が成り、同年に蓮如上人三百回忌を厳修してから35年後。文政6(1823)年11月15日に、本山では山内出火によって再び両堂を全焼する悲嘆の事態が起こった。夕方の出火であったが、当日は京都御所の新嘗祭に当たり、市中には火の用心が通達されて、食事準備にも薪でなく炭火を使っていたところへの失火であった。達如上人の心痛は殊のほかで、早速に御所にも陳謝の使いを送ったが、新嘗祭は無事に行われたとむしろ見舞いの勅使を受けたのだった。時節柄、間もなく報恩講を迎えるが、諸国から上山した門徒たちは悲痛な想いで焼け跡の片づけを手伝うことになった。
 まったく偶然のことに、この本山両堂が焼けた日は、尾張門徒が永年に亘って心血を注いだ名古屋御坊本堂の再建が成就し、その遷仏式が執行された日でもあった。そこで12月7日には、役目を終えて解体保存されていた元禄15(1702)年建立の名古屋御坊古御堂用材を、本山仮御影堂用材に転用することが本山側で決定される。尾張御坊の用材を使って組み立てる以上、その棟梁に代々尾張御坊の棟梁を勤めた伊藤平左衛門家が携わるのは必然であったようで、ここに始まるいわゆる文政度両堂再建から伊藤棟梁の本山両堂再建作事への参加が見られる。7代目守之、8代目守富の優れた技量が認められたものであるが、本山棟梁笠井若狭守が独占して率いてきた再建作事に、尾張棟梁が加えられたのは実に異例であった。これ以後、安政度再建にも加わり、ついには明治度再建において伊藤平左衛門は御影堂棟梁というもっとも名誉ある地位に就くことになる。ここに至る事情は、安政度再建以降において、尾張で御影堂の主要部分の切り組(製材と組み立て)を請け負うことを申し出た尾張門徒の意思が強く作用している。初めは内陣一式の切り組を許され、ついには小屋組み一式(御影堂大屋根)を尾張で請け負うようになった。
 現在ご修復中のあの巨大な大屋根は、紛れもなく尾張門徒の寄進によって製材・組み立てまでが、しかも尾張棟梁の手によってなされ結実したものである。
 
 
← 前ページ | 次ページ →          ⇒目次 
 
「教えて真宗!」一覧
▲このページの先頭へ
Copyright©真宗大谷派名古屋別院・真宗大谷派名古屋教区・教化センター
http://www.ohigashi.net お問合せ・ご感想はこちらから