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| (14)本山における棟梁伊藤平左衛門の登用 |
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本山集会所再建請負について記録する『名古屋別院所蔵史料』
(「本山集会所再建一件」「口上書」「集会所新木書抜」) |
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話は少し戻るが、文政6(1823)年の2度目の本山両堂焼失による再建事業では、尾張門徒は集会所の普請をも請負っている。集会所とは諸国門末の詰所であったが、用材を尾張で調達するのみならず、大工作業も御坊境内地内で行った。門徒による取り持ち(懇志金)のすべてを尾張国内での工匠への支払いに充て、それによって国財の散失を防ぐとともに、工匠に経済的潤いをもたらしたのである。地元で細工を行うことは、以前に記した安政度再建時の御影堂小屋組み請負の場合と同じである。つまり、尾張での作事による地元経済への貢献という発想は、安政度の発案ではなく、すでに文政度において存在したことになる。
また、文政度再建を最初として、尾張大工の伊藤平左衛門が本山再建事業に関わる。その理由は、奇しくも文政度本山焼失と尾張御坊再建成就が同じ日で、不要になった尾張御坊の旧堂を本山仮堂として移築して組み立てることになって、尾張御坊付きの伊藤棟梁を本山に登用するという措置であった。しかし、文政度本山両堂再建では、明治度のように惣棟梁として迎えられたわけではなかった。惣棟梁は東本願寺の創立以来、伝統的に本山棟梁を務めてきた家柄の笠井若狭守であり、伊藤平左衛門は棟梁の一人に加えられたのであった。とはいえ、その身分は「本山棟梁格」という極めて高いものであった。
本山集会所の細工は尾張で進められたが、その棟梁は「尾張掛所(御坊)出入り、本山棟梁格伊藤信濃守平左衛門」が務め、本山棟梁笠井若狭守も尾張まで検分に出張したのであった。このように、伊藤平左衛門は両堂再建に始めて参加した時から、すでに本山棟梁格に取り立てられるほどに、その卓抜した技量が認められ評価されていた。
なお、三河門徒は明治度再建において両堂の瓦の全部を調製寄進したことが知られているが、文政度の集会所の瓦調製を申し出ている記録が名古屋別院所蔵史料に見られ、尾張門徒の小屋組(屋根)寄進、三河門徒の瓦寄進に至る道は、文政度再建事業の中に胚胎していたといえる。 |
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