(17)四度目の両堂焼失と再建への胎動
 
上・徳川慶喜が東本願寺御殿を宿所として時に、対面所として使用された本山大寝殿
右下・徳川慶喜が東本願寺に残した書状
 
 明治維新の4年前にあたる幕末の元治元(1864)年7月20日、真宗本廟(東本願寺)は4度目の焼失に罹った。3度目の炎上の安政5(1858)年京都大火から6年、万延元(1860)年に両堂を再建してわずか4年目の悲しい出来事であった。尊王攘夷を掲げて上洛した長州藩と、京都を守護する会津・薩摩藩との戦乱であったが(禁門の変)、戦火が市中に延焼してついに本山にまで及んだのであった。御真影は前日中に山科別院に遷座していたものの、両堂・諸殿などは悉く灰燼に帰してしまった。東本願寺の記録(例えば『菊の間日記』)では、境内北側台所門内に先ず火が入ったとする。しかし、俗説として、勤皇の薩摩藩兵が幕府擁護派の東本願寺を憎んで、境内南側にあった東照宮霊殿に大砲を打ち込んで燃え上がった、とするものもある。先立つ7月10日、本山は尾張藩主徳川慶勝の上洛に際して本山を宿所とすることを触れていた(『厳如上人御一代記』)。禁門の変の処理に際して、慶勝は征長総督に任じられており、幕末の混乱と東本願寺の立場を考慮すれば、誰かが言い出してもおかしくない臆説である。尾張御坊は徳川方尾張藩にあって、こうした本山の事態に心を痛めていたことであろう。3度目の本山焼失は誰の目にも早すぎる罹災であった。
 本山では、翌慶応元(1865)年中に朝廷から拝領の建物を仮御堂とし、同年末には孝明天皇から再建の綸旨を得、慶応二年には幕府から5万両と用材寄進を取り付けて、慶応3年9月5日に両堂再建を門末に発するに至っている。
 その間、いち早く大寝殿などの対面所から再建に着手している。それは、東本願寺が徳川家康の取立てによって創設された縁から、将軍後見役に就任した徳川慶喜の公武合体を進める上からの上洛時には、宿所提供の役目を負ったことにもよる。慶喜は実際に二期にわたって逗留し、仏法興隆を約束した(東本願寺所蔵慶喜書状)。尾張門末は、こうした動きにも支援を送ったと見られ、本山にとっては、重要な位置づけの存在であることを改めて実感していった時節であったろうと思われる。
 
 
← 前ページ | 次ページ →          ⇒目次 
 
「教えて真宗!」一覧
▲このページの先頭へ
Copyright©真宗大谷派名古屋別院・真宗大谷派名古屋教区・教化センター
http://www.ohigashi.net お問合せ・ご感想はこちらから