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| (18)維新期の政府献金と尾張門徒 |
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| 両堂再建の第一歩として製作された御影堂門楼上の大経会上の三尊像 |
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維新期に、東本願寺はしばしば新政府への献金を迫られた。鳥羽伏見の戦いの戦端が開かれて2日後の、慶応4(1868、9月に改元し明治元)年正月5日深夜、薩摩藩による東本願寺御殿の焼き討ちの噂、および新政府による東本願寺廃絶の脅迫を受けて、時の法主・法嗣は朝廷に帰順する旨の誓紙を差し出した。その結果、翌日には政府献金を求められ、1月10日に千両を献じたのみならず、同月中には、法主親子が二手に分かれて近江・美濃・尾張・三河の門末を巡回し、官軍の兵糧米として米4千俵、同じく用金5千両を献じたのであった(以上『東本願寺史料』)。尾張の門末が頼りにされていたことが頷けよう。その後も、4月には東本願寺建物を新政府の会計役所に充てたいとの圧迫があり、容赦してもらうために千両の献金をした。明治元年当初からのこうした政府献金を挙げればきりがないが、そのたびに有力門末である尾張にも請負の依頼が及んだであろうと思われる。
両堂再建の発示は明治12(1879)年5月12日であったが、その前後に名古屋別院は同11年10月・13年6月の2度にわたって明治天皇の立寄り、あるいは宿所を引き受けている。宗祖に対して、明治9年11月28日に「見真大師」諡号を天皇から贈られた宗門の立場からは、費用がかさんでも承引すべきことであり、また、それによって名古屋御坊の価値が上昇する一面もあった時代のことである。なお、名古屋別院への明治天皇の宿泊は明治20年2月にもあった(以上『厳如上人御事歴』)。
明治維新の混乱期から両堂再建へと踏み出した一歩は、大師号下付に促された御影堂門楼上安置のための、大経会上の三尊(釈迦・弥勒・阿難)の制作であった。阿難尊者の促しによって釈迦如来が大無量寿経を説き、弥勒菩薩に付属した様を象徴するものである。法主自らもノミを手に刻み、明治12年5月6日から10日まで開眼法要が営まれた。そして、12日に再建発示、同17日に再建事務局開設に至った。同年11月には大師号勅額が本山に届き、再建御消息が披露されて事業が本格化した。 |
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