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| (22)大量の再建用材調達のこと |
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名古屋の篤信者神野金之助の寄進による本山鐘楼。
両堂再建最終段階の明治26年に期間10ヶ月で建設された。 |
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明治の両堂再建では、全国各地からの献木を中心とする5万1475本の木材が使われた(『寄付買入木竹土石等員数代価累計表』)。献木で揃わない部分を買入材で賄いはしたが、門徒寄進による献木なしには再建は不可能であった。旧幕府時代には、徳川家康恩顧の東本願寺であることを理由に、再建には飛騨の御用林から桧材などを寄進される慣例があった。必要本数の一定量を、しかも良材を、幕府の寄進によって得ていたことになる。しかし、明治の再建ではそれが皆無であった。元治元(1864)年に焼失してから再建発示がなされた明治12(1879)年まで15年、諸国の門徒がどれだけ胸を痛め、本山再興を願っていたことかは計り知れないものがある。再建発示と同時に献木願いが相次ぎ、用材が陸続として本山工作場に運び込まれる状況を呈したのも故のないことではなかった。
名古屋には篤信者として聞こえた紅葉屋経営の豪商、神野金之助がおり、明治の再建に自分の所有する伊勢大熊山の木材のすべてを寄進すると申し出たことは、今も語り草となっている。しかし、これも周知のように、法主厳如上人は多くの門徒による信施の集積のみによって再建を果たしたいという念願から、一人による目立つ寄進は名利勝他に通ずると許可されなかったという。そのために神野の寄進は延び延びにされ、両堂上棟式後に、鐘楼堂再建の寄進について許されるという経過をたどったのであった。同じく篤信で聞こえた射水某の記す『報恩実録』には、神野の申し出た大熊山の木は、雑木が多くて両堂には不向きだったからとある。真相のほどは如何であろうか。
大量の再建用材のほとんどを献木に依存する事情から、諸国門徒の寄進意欲に頼るだけでなく、再建事務局が説諭掛を通じて献木熱を醸成するところもあったと思われる。別院・末寺・講に使僧を送って再建と法義相続との一義性を説き、あるいは著名学僧を巡回布教に派遣して、再建取持ちの意義を広く触れ回った。そして、それを受けて地域の末寺・門徒が相談の上、適材を選び出し、用材献木の上申を再建事務局に申し出るという手順が示されていたことであろう。
先月号に記したように、もよりの港の材木集積場である木揚場までは、全面的に地域門徒の負担であった。伐り出し、運搬などの費用と労力は、門徒自身が文字通り汗水流してお手伝いに参加する「懇念」「懇志」の表出でによった。縄はおろか、大勢の材木運搬の人びとに供する食事材料の調達、酒食の準備、休憩所の提供も、地域で互いに担当し相談して木材寄進は行われた。献木といっても、私有地の大材を買い取る場合もあり、村有地の木には他宗信者である村人の了解の取りつけも必要であった。地域門徒の「懇念」は、あらゆる場面において発揮されたのであった。 |
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