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| (25)相続講設立と尾張への期待 |
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尾張相続講事務所は名古屋別院ないに置かれ、当初は尾張・
桑名・三河・遠江の広域事務を所管していた。(旧玄関・明治時代) |
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明治12(1870)年の再建発示以降、用材献木を中心に各地から本山への助力が相次いだ。しかし、献木にしても、伐採から最寄りの木揚場(尾張の場合は桑名港)までの諸費は門徒負担ながら、木揚場から本山までの運搬は本山費用で賄われ、両堂の直接土木工事費以外に懇志が使われる場面も多かった。しかも、門徒の懇志が再建志に集中した結果、本山経常費分の懇志収入は目に見えて減少し、ただでさえ明治政府との関係を良好に保つための工作資金などで借財に苦しんでいた本山は、ついに財政的窮地に陥った。明治18(1885)年には負債が240万円となり、取引銀行(三井)から融資を断られる事態に立ち至ったのである。
そこに考案されたのが本山相続講であった。同年11月の本山報恩講御満座翌日に示された趣意書によると、仏法興隆のために真宗を拡張するという大目的を掲げている。そのために、僧侶の面々は「学問に勉励して布教に尽力いたすように」、門徒は「真実の法義相続に基づいて真実報謝の務めを全くするように」と説き、両堂再建の進捗の一方で法義相続が等閑になることのないよう、地域に相続講を結成せよというものであった。相続講とは、地域において門徒同士で法義の相続を相互確認する講組織であるが、門徒の一人ひとりが加入金を出資して新たな講を結成するところに新味があった。初めは男性2円、女性1円が加入金と定められ、これに加入すると両堂再建への参加と法義相続の実践とが両立する仕組みであった。講員が物故した場合には本山で読経して貰える特典もあったので、瞬く間に会員を増やし、3年後には本山負債が償却されるという結果に繋がった。
相続講が財政困難を救う切り札となったことは事実であるが、その設立の伏線には全国的な教学の不振をどうにかせねばという課題があった。相続講設立前年の明治17年から特に指令されていたのが教学(布教と勧学)の策進で、本山の大学寮に所属する地方学場(尾張では尾張学場)が主要地に開設されたのは、相続講設立の二ヶ月前であった。尾張は重点的期待地域の筆頭に挙げられ、新門(大谷光瑩)が相続講設立後間もない時期に尾張を巡化したのは、まさにそのためだった。
当局者は相続講新設の意図は4つと言う。1に門徒教導の場である両堂の再建(その障害となる負債の償却)、2に法義相続に門徒を教導する教学の振興、3に門徒が盛衰無く報恩謝徳に心を向ける精神の涵養、4に僧侶は教学に努め、門徒は他力信心の獲得に進むよう励ますこと(『本山報告』第42号)であった。尾張門徒の法義への篤さは、教学に熱心な気風のもとに、僧俗ともに法義を大切に学び、懇切に伝えて来た歴史を示すものである。 |
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