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| (26)本山両堂の建物か真宗法義の相続か |
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法義相続は、宗祖の教えを聞き、教えの内容について自らに尋ね、
他の人と確かめあうところから始まる(法話に耳を傾ける門徒同朋) |
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真宗本廟の両堂か、真宗法義の相続か、どちらが大切かと問われれば真宗法義の相続が第一義である。歴史的には、宗祖を偲ぶ真宗本廟あればこそ門徒があり末寺がある。また、門末の精神的帰依処としての真宗本廟の意義は謂うを待たない。しかし、門末一人ひとりと本山とのご縁は必ずしも深くはないのが実際であろう。われわれの先人は、日頃の真宗信仰をどのようにして真宗本廟護持にまで繋ぎ、両堂を維持してきたのであろうか。
一つには、かつては強烈な宗主信仰があった。ご本山に居られる「御法主様」といえば、貴種の血をひく尊いお方で、カリスマそのものであった。そのお方が指令し、願っておられることを成就するのは門末の務めであった。そして二つには、別院・末寺による不断の教化があった。宗祖の教えに基づく教導があった。本山へ行けずとも宗祖を眼のあたりにできる内容を備え、宗祖への思慕の想いを醸成していた。三つには、門徒相互による法義確認の場としての法座が、在家講として毎月のように繰り返されていた。そこには崇敬すべき方便法身尊像(阿弥陀様)、およびその地に縁ある本山歴代宗主の影像が掛けられ、あまつさえご消息の拝読もなされた。在家がそのまま臨時の道場となり、宗祖・歴代宗主の教化に触れる想いに浸ることができた。
つまりは、本山との精神的紐帯が極めて強かったのである。近来では、「本山の世話にはなっていない」とか「在所の寺の維持が先だ」という論法も聞かれるが、真宗法義が宗祖から流れ出ている意味からすれば、法義第一は本廟大切という心に繋がるのが法義相続であった。
今日、日常性における仏法喪失が懸念されている。熱心な僧侶・門徒がおられる一方で、確かに、朝夕に仏壇に手を合わせ、食事にも感謝の言葉を口にする精神風土が廃れつつある。法義相続の根源を支えてきた在家中心の講も徐々に縮小され、法座の場も公民館などに有志だけが出向く形態が増えている。したがって、法義が現在の門徒に止まって次世代に継承されない憾みがある。法義相続の原義は本願念仏の信仰を自らが持ち続けることであって、遺産相続のように子孫に伝えることではないのだが、自らの信仰が周囲の人にも相続を及ぼし、門徒相互の法義確認の積み重ねが本廟護持に直結した時代は終わったのかも知れない。
まずは、根本たる法義による真宗同朋意識の回復が望まれよう。僧侶は門徒に語りかけ、門徒は門徒同志で集い合う場を大切にしたい。「いのち」と表現される、自分を越えた世界に気づかせられていくところに、新しい日常性を見出す出遇いが潜んでいる。宗祖の言葉に耳を傾ける機会を持つことが良い。 |
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