(27)名古屋工作支場に見る一宗の繁昌
 
堀川西岸の名古屋工作支場跡地と思われるあたり
 
 名古屋には明治の本山両堂再建に際し、名古屋工作支場が置かれていた。明治15(1882)年3月11日から翌年9月5日までの短い期間であったが、御影堂小屋組(大屋根)の垂木・軒回り、および宗祖御真影(御木像)安置のための厨子・須弥壇など、桧材を用いた重要部分の工作は一手にこの工作支場においてなされたようである。その場所は、当時の水主町3丁目9番地(現在の中川区松重町付近)、堀川に架かる須崎橋から日置橋に至る西畔河川敷の南北に長い短冊形の地であった。堀川を利用した桧材の貯木場を中心に、工作小屋が4棟設けられていたようである。名古屋別院には当時の土地借用証文・図面などが残っており、現在地と照合した場所の特定が望まれる状況である。今回の本山両堂ご修復を機に、尾張門徒による経営を顕彰する意味で、詳細な現地調査の上、「大谷派本願寺再建工作名古屋支場跡」の標識を設置したいものである。
 名古屋工作支場が設けられた理由は、本山両堂再建の棟梁に名古屋別院出入りの伊藤平左衛門が抜擢されたからであり、最も重要な部分を伊藤棟梁配下の名古屋大工が担当することになったからであった。それには、以前に触れたように、名古屋の材木商と名古屋御坊との用材調達の良好な関係をはじめ、名古屋で工作を行って物資・人材その他諸々が集積することによる、名古屋の地にもたらす計り知れない経済効果が見込まれていた。また、本山にしても、製材の済んだ用材を運ぶ方が体積で決まる船運賃の節約に直結する経済性を理解していた。
 尾張門徒は、工作支場を経営しつつ、本山への直接献木・再建志を怠ることなく、また多数の手伝い門徒の上山を持続的に行った。尾張門徒の懇念は諸国に比べても群を抜いていたと言ってよい。三河門徒と競いつつ、北陸門徒・大阪門徒と切磋しながらトップの位置を保ってきた。それは財力や才知、教学熱心や信仰の深さというだけでは説明しきれない力であった。宗祖が頼みにされた「こころざし(志)のもの」(御消息集)は、「遺弟の念力」(報恩講式)として、見事に尾張門徒によって「専修正行の繁昌」(同)を見たことの証しなのである。
 先日は西尾市の三河工作支場(製瓦場)跡を訪ねた。堀川と同じく運搬に便利な矢作川畔に経営され、両堂の瓦のすべて(28万6千余枚)を製作した三河門徒の懇念の結晶の地である。そして暮戸教会所蔵史料を拝見して成果場の全容を図によって知ることができた。現地の顕彰碑も整備されている。名古屋工作支場についても、貯木場の場所と工作小屋の配置などについての史料検討を進め、尾張門徒による「仏恩をいただき師徳をになひて」表してきた「一心の懇念」(同)の跡を今に留めたく思う。
 
 
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