(28)名古屋工作支場の跡地をめぐって
 
『両堂再建ニ付用書并工作支場御設置ニ付用書綴込』(明治15・16年。名古屋別院所蔵)
収載の工作支場の図面(ニ葉のうちの一つ)
 
 先月号で、明治の本山再建時の名古屋工作支場の場所が確定されていないと記した。しかし、折角なのでこの機会に確定できないものかと現地調査を試みた。これまで得ていた情報は、@旧水主町九番地A堀川西岸で日蓮宗聖運寺の対岸辺りB敷地内に池があったCかつて跡地を示す標木があった、というものである。ところが、今夏、名古屋別院所蔵『両堂再建ニ付用書并工作支場御設置ニ付用書綴込』(明治15・16年)を調査させて戴き、そこに工作支場の図面が二葉含まれていることが分かった。その図は、工作小屋を持つ買得地、および道向かいの材木上げ下ろし場とする借用地が記され、南端からは「日置橋マデ二町半(約250メートル)」とあった。これに勇気づけられ現地調査に赴いたのである。
 日置橋を起点に歩いて調べたところ、一帯は今も材木関係を扱う事業所の多い地域で、そこに図面とほぼ同じ形の敷地の場所を見つけることができた。それは、現在の中川区名駅南3丁目11番地を中心に建つ中部電力水主町変電所敷地であり、また、道を挟んだ西濃建設の敷地が材木上げ下ろし場跡としてよいことである。堀川の川筋に面する上げ下ろし場から材木を調達し、道向かい西側の地を工作支場としたのであろう。往時は工作小屋が4棟並び、そこで御影堂大屋根に使用する飛騨桧材すべての製材加工が行われたのである。工作支場の道路側間口は約60メートル、奥行きも30余メートルはあった。間口のやや北寄りに門が開かれ、そこから棟梁伊藤平左衛門以下、伊藤棟梁配下の名古屋大工の面々が出入りした様子が思い浮かぶ。工作支場前の堀川西岸の道を南へ行けば、日置橋を越えて数十メートルの場所に伊藤棟梁の邸宅があったのである。邸宅は今は亀井設計事務所となっているが、「伊藤平左衛門設計事務所」の古い標示は現在も読むことができる。
 大工たちが技量を磨いたという伊藤棟梁の屋敷に近く、棟梁にとっても熟知の材木商などからの用材調達がしやすい堀川筋の地。そこが何故選ばれたのかが理解できる現地であった。しかし、こうして工作支場跡地が知られ、聖運寺は敷地北側対岸に位置したことも分かったものの、池と標木の存在についてはまったく不詳のままに終わった。
 名古屋工作支場は明治15年3月11日に開かれ、翌年の9月5日に閉じられた。閉じる理由は「負担の工事があらあら落成に及んだから」とされ、閉場後には、工作小屋の他に丸太100余本、竹200本、桧皮約1500枚が残された。これらは別院境内に移され、別院の営繕に使用するか売却するかについて、本山に伺いを出すことになったところで別院記録は終わっている。短命の理由の一つは、工作支場の運用と支場を拠点とする教化事業について、尾張八郡の一致的体制がとり得なかった事情にあるらしい。そこまで手が回らないほどに、本山再建助力のための地域教化が優先される状況だったのであろう。
 
 
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