お 盆
 
 猛暑の中、セミの鳴き声とともにやがてお盆を迎えます。
 お盆は、社会的にも夏季休暇という趣きがあって、仏教徒にかぎらず夏の恒例行事、風物詩のようになっています。本来の仏事の意義がなくなって、商品化されているようにすら思います。

 一昔前のお盆というと、遠く田舎を離れた人たちがお墓参りに帰省をして、普段は静かな村も賑やかな人々の声で溢れる時でした。殊に子どもたちにとってのお盆は、盆踊りや花火、それに夜店であったりして、長い夏休みの中でも心高鳴る山場であり、同時にお盆が終わると急に人々が去っていく寂しさと併せて、残った宿題を抱えて何ともいえない切なさの中で、子どもなりの切羽詰まった忙しさを味わわねばならないことでした。
 どこから、どのように帰ってくるのか事新たに問うてはみないけれど、亡きご先祖たちとの賑やかな出遇いの時。お盆は、おまつりであったのです。

 しかし、そんなお盆の賑々しさとともに、もう一つ何か大事なことが伝統されているように思います。

 親鸞聖人は、『教行信証』の中で「祭祀の法は、(略)すでに未だ世を逃れず」という『楽邦文類』の言葉を引かれています。
 何といっても身近かな人の死や、あるいは遠いご先祖に思いを馳せる時であったりするお盆は、実はそれらが縁となって、世間に流されている私たち人間に、眼を開くことを求めているといっていいのでしょう。
 いわば、帰るべき真の故郷、国を見失ってさ迷い続けている私たちに、「すでにこの道あり」と呼び返している、そんな<声>に耳を澄ますチャンスが、お盆にまでなっている念仏の伝統なのではないでしょうか。単なるおまつりに終わらせるか、「念仏申せ」という呼び掛けに自己を回復するかという、「一大事」に関わる問題なのです。

 ご先祖が、私にとって諸仏となるかどうか、お盆の迎え方は一人ひとりの聞思する姿勢にかかってあるのだと思います。 
 
リーフレット「お盆」より   (藤井 慈等 三重県 慶法寺住職)
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