お 彼 岸
 
 「彼岸」というのは煩悩(ぼんのう)に満ちた迷いの「此岸(しがん)」の反対側にある世界。生死を超えた涅槃(ねはん)の境地のことです。大乗仏教では菩薩の基本的な実践徳目を、通常 六つに数えて「六波羅密(ろくはらみつ)」といいますが、この「波羅密」を日本や中国の伝統的教理解釈の中で「彼岸に到る行(到波羅密(とうはらみつ)」と捉えます。そうした解釈と日本の古い習俗が混交して、春分と秋分に、それぞれ七日間の彼岸会が行われるようになったのです。この年二回の彼岸会(お彼岸)の期間の中間に置かれるのが春分の日と秋分の日で、昼と夜が同じ時間になるこの日を、仏教の「中道(ちゅうどう)」の教えに適合すると考える向きもあります。

 ただし、仏教の思想と世間の習俗とが融合する場合には、仏教の理想が、いくらか稀釈されたり曲解されたりしていることがあります。「中道」は、人間の主観的識別による虚構の認識<妄分別(もうふんべつ)>が生み出した、二つの対立する極端を「超える」ことを意味しています。この「超える」ということが大切で、それは 単に、長さの中間や重さの真ん中に定着することを求めているのではなく、「妄分別を捨てる」ということを意味しているのです。

 また、春分・秋分には太陽が真西に沈むので、極楽浄土にもっとも近づき易い日だと考える人もいます。この場合、問題となるのは、こうした浄土を、「此岸」に対極するもう一つの具体的別世界だと思いがちになることです。「浄土」は濁悪世(じょくあくせ)の浄化された理想の仏国土です。しかしこの浄化は仏の行によるものであって、それは人間の分別力からすれば、不可称・不可思議・不可説な世界なのですから、わたしたちの思念によって具体化されることはありません。「浄土」を具体化して示そうとするはからいこそが、「煩悩」の所作なのです。それを「超える」ことが求められていながら、どうやってもわたしたちは、迷いの世界の眼で、この理想世界を分別しようとしてしまうのです。

 彼岸会を迎えるにあたって、お墓やお仏壇に手を合わされることは結構なことです。しかしそこで、わたしたちが、妄分別を捨て、念仏をいただく身になっていくことが、もっとも大切だということを忘れないことが必要です。 
 
リーフレット「お彼岸」04より   (浅野 玄誠 同朋大学教授)
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