第13回 仏説無量寿経 〈巻上〉
 
自覚の道に段階あり どこもでも残る人間心 〜 永遠のともしび(4)
 
 無量寿経に説かれております四十八願について二回にわたってお話しして参りましたが、その中で第十八願、第一九願、第二十願の三願だけを除いておりましたのは、これは非常に大切な願でありますので、今回この三願だけについて詳しくお話しするためでありました。この三願に特に注意されたのが宗祖でありますが、先ず目立ちますことは、十方衆生という呼びかけであります。
この呼びかけはこの三願だけにあることで、他の願には見当たりません。十八・一九・二十願と続いて三たび十方衆生と呼びかけられているのであります。この呼びかけは私たちの心を呼びさます、つまり自覚を与えるためでありますが、呼びさまされた私たちの心について至心信楽(十八願)、至心発願(一九願)、とあらわされている、と宗祖は受け取っていられますが、これらは自覚についてのことばでありましょう。南無阿弥陀仏がまことであり、これが私たちにとって唯一の法(それによって救われる)であることは第十七願一つで誓われてありました。まことは一つであって、高いまこととか、低いまことということはありません。しかしそのまことを自覚する、その自覚については段階があります。
至心信楽といのは南無阿弥陀仏のまことについて一点の計らいもない純粋無雑の自覚をあらわしています。一点の人間ごころの影すらないような心、人間が南無阿弥陀仏を信ずる心ではなく、それこそ南無阿弥陀仏が人間の上に実現したこと、宗祖はこの心を如来の心であるとして、他力の信心といわれるのであります。人間のどんな心も人間を救うものにはなりません。人間の上に実現した如来の心だけが、無限に人間の心を破って明るい豊かな如来の世界を開くのであります。
しかしこのような自覚が一挙に人間の上に成り立つことは至難であり、そのためにこそ仏の深い方便というものがあるのです。方便ということは仏が人間のところにまで下さって、そこで人間に働きかけられることでありますが、第一九願の内容であります至心発願というのは、人間が自分自身を高めて仏になろうとする心、これは全く一つの思い誤りでありますが、ここに仏が仏を実現する一つの手掛かりがあるとして、この人間心を包んでその無効を知らせ、そこに仏を実現しようという御心をあらわしたのが第一九願であります。
第一九願によって人間の無効が知らされ、そこに一つの自覚が生まれてまいります。つまり至心信楽の心に目覚めるということがここに成り立つのですが、その自覚の中にも中々完全に拭い去ることの出来ぬ人間心が残り、それがやがて如来の心をも我が心として包むという形をとってまいります。自力の信というのはこういうことを言うのでしょう。このことを更に自覚させる、如来を人間の心でつかんでいたと知らせ、本当の純粋な至心信楽にかえらせる、ここに第二十願の深い意義があり、自覚がここに完成するのであります。
 
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