第16回 仏説無量寿経 〈巻上〉
 
浄土は満足の世界 〜 永遠のともしび(7)
 
 今度は修行を通して見出された世界が浄土としてあらわされています。浄土ということを一口でいえば光といのちにみちあふれた世界といえましょう。光というのは人間のあらゆる問題がすべて答えられている形をあらわします。先にも申しましたように、浄土は法蔵菩薩の願いが根本になって見出された世界でありますから、この世界を支えるいのちは願いでありましょう。そして一たび願いにたってみると、一切がそこから改めて見なおされて参りますから、あらゆる問題はすべて願いにたって見直され、私たちの考え以上の深い意義が見出されるのであります。これが光明ということであらわされています。
 いのちというのは肉体的な生命をいうのではなく、願いという精神的なもの、心を支えて人間の全生活に生彩を与えるものであります。従って一たび私たちが浄土に触れるならば、明るさと生き生きとした脈動を感ずるような生活が開かれてくる筈です。法蔵菩薩が浄土を見出そうとされたのは、結局私たちの根本問題に答えるためでありまして、人間にとって一番大切なものは何かということを掘り下げ、明るさといのちこそ人間の根本問題であり、如何にしてそれを与えるかということにあったのでありましょう。だから光と生命こそ大悲(人間を包んでそれに答える)のもとであると親鸞聖人は受け取っていられるのであります。
 さて浄土のありさまをあらわしてある一段は、いろいろのことが説かれていますが、その中から重要なものを取り出してみますと、先ず浄土は七宝(七つの宝。間、銀、瑠璃など)をもって出来上がっているということであります。これは何をたとえられたのかと申しますと、浄土は満足の世界であるということでしょう。よく世間に「上を見ればきりがない、下を見ればきりがない、まあこの辺で満足しておかなければ」という人がおりますが、これは本当の満足ではありません。上を見て不足の心になり、下を見てまあましだと自分に言い聞かせるのでしょう。不足はないということが七つの宝であらわされているのであります。
 次いで道場樹ということが出ております。道場というのは教えが説かれる場所、樹はお釈迦さまのさとり(菩提樹)があらわされていまして、仏法ということ、浄土での大切な営みは教法が説かれ、それを聞くことであるということに違いありません。そしてこの世界は教えによって動いているのであります。
 次いで水というものを中心に、浄土における物質がどういうことになるのかという問題が取り上げられているようです。仏教以外の思想では、精神の勝れたことをあらわすために物質というものを無暗にしりぞけるような考え方が出ています。しかし仏教がかかげる精神は決して物質をしりぞけるものでなく、却って物質を正しくよみがえらせるものであることを示しているのでありましょう。
 
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