第22回 蓮如上人御一代記聞書
 
(2) 心の掘り下げが信心
 
 人間の深い内面をどこまでも掘り下げるところに、信心の姿がありますが、御一代記聞書にはこの信心の問題がところどころに出ています。これは蓮如上人が外に教化のため身をされたお姿の内面に、深い信心の問題をいつも心にたくわえられていた証拠のあらわれだと申せましょう。今回はその中の二、三を取り上げてうかがっていきたいと思います。
 一、「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」とそうろうを、「え存ぜずそうろう」よし、もうしあげ候うところに、仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と仰せらそうらいき(聞書・本巻九)
 これは「念仏を頂きながら自力が捨てられぬ」ということがどうしても分かりませんという質問に対して、「話は分かるが仲々その通りにはなれない者のことである」と言われたのでしょう。 
 自力の間に合わぬことは法然上人の教えで充分であります。しかしそれだけでは浄土宗は成り立っても浄土真宗にはなりません。親鸞聖人は自力が間に合わぬというだけでなく、自力がなかなか捨てられないことを、身をもって教えて下さったのであります。この精神を汲みとられたのが今の蓮如上人のお言葉でないかと頂くのであります。
 親鸞聖人は南無阿弥陀仏を頂いた心を南無の心としてあらわしていられますが、南無の心というのは、姿で示せば頭の下がったこと、自らの自力の根深さに驚き、あさましさに頭の下がることでありましょう。 
 一、たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。これによりて、一人ずつも心中をひるがえさずは、ながき世、泥梨(ないり)にふかくしずむべきものなり。これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆえなり。(本巻五八)
 「われはわろき」というのは南無の心をあらわされたお言葉だとうかがえます。南無の心は言いかえると懺悔でありますが、懺悔のないことこそ聖人の教えに背いている姿であるといわれるのでしょう。一人一人が心中をひるがえさないのなら、廻心しないなら永遠に地獄に沈むであろう。これというのも仏法の深さ、仏の心の深さを知らぬところから起こるのであると、厳しくいましめていられるのであります。
 この内面の深い懺悔の心はますます私を仏法の一路にすすめます。或る人が「私の心は籠に水を入れたようなもので、聞いた後からすぐもとにもどってしますが、どうしたものでしょうか」と問うたに対して「その籠を水につけよ」とまことに単的に答えていられます。自分が籠だと分かったらその籠を何とかしようという思いを捨てて籠を水の中に置くこと、いよいよ聞法に力を入れる以外にないことを教えられるのでありましょう。
 信を得ているか得ていないかを自分できめるわけにはいきません。本当の懺悔は自分をはからう心がすたって、いよいよ法の中に自分をすすめる筈であります。
 
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