第23回 蓮如上人御一代記聞書
 
(3) 廻心懺悔して信をとる
 
 蓮如上人御一代記聞書は本巻末巻に二巻に分かれていますが、前回は本巻から大事なお言葉を拾ってお話しました。今回は末巻から信心に関するお言葉を拾ってこの聞書の解説を終わりたいと思います。末巻を聞いて先ず目につくのは一二二条、
 「聴聞、心に入れて申さん」と、思う人はあり、「信をとらんずる」と思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と、聞きて、「参らん」と、願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」と、仰せられ候う。
という一条であります。人間はえてして自分の心を宗教の世界にまで引きこもうとするものであります。ということは自分の心を満足させるために、自分の欲望をとげるために仏をたのむということであります。実はその自分の心、自分の欲望、それこそ自分を苦しめるものをつくる心でありまして、この始末をつけるところにこそ宗教の大切な意義がなければなりません。「極楽は楽しむと聞く」のは全く自分の心をそのままにして、その心を宗教で満足させようとする野望でありましょう。人間は都合のよいことが好きで都合の悪いことが嫌いです。そしてこれは抜き難い人間の根性であり、この心が地獄一定の心であります。
 自分を苦しめているものが自分の心であった。自分を救われぬようにしているのがわが心であったと気がついて、心の方向が全くかわるのを廻心(えしん)といいます。だから廻心は懺悔(さんげ)という言葉と重ねて用いられていますが、懺悔というのは罪に自覚、自らを苦しめる心を自分自身に持っていることに対する深い自覚であります。多くの人はこの心を反省だと考えています。反省というのは自分の心を自分の心で見きわめることで、これではいかぬと思うことですが、この心を聞書の一七五条には「心中をあらためん」と思う心だと指摘されています。
 「心中をあらためんとまでは、思う人あれども、信をとらんと、思う人はなきなり」と、仰せられ候う。
 「心中とあらためん」というのは、改めれば何とかなるという心なのでしょう。いやそれ以前に心掛け次第で改められると思うのでしょう。自分の思いで自分がどうかなると思うのも自力であります。こういう自力が間に合わぬこと、しかも、自分の心以外に何もない自分というものに対する深い懺悔、その自覚の力が大きく心を一転して本願こそ真にたのむべきものであるという、本願に生きる生活を開くのを廻心といいます。
 信心をとるといわれるのはそういうこと、前に「弥陀をたのむ」といわれたことであります。弥陀をたのむというのは、裏からいえばわが心はたのまぬということでありましょう。「心中を改めん」というのは、やはりわが心をたのんでいることになります。だから第一八六条に、「信をとらぬによりて、わろきぞ、ただ、信をとれ」と、仰せられ候うと、自分の心の悪いのより、それを自覚せず、たのむべき本願をたのまずに、わが心をたのんでいるのこそ、救い難き悪さであると示されているのでありましょう。上人の信心の深さが聞書にこそ窺えるようであります。
 
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