第25回 一念多念文意
 
(2) 廻心懺悔こそ真宗の骨頂
 
 一念多念の証文は二つに別れているという事は前回申しましたが、先ず最初には「一念をひがごとと思ふまじきこと」という趣旨のもとに、十四の証文が挙げられています。大体、一念ということを、法然上人では一念というと行の一念といって念仏のはたらきのこと、一念仏にこの上もない功徳がそなわっているということを特に大切に見ておられるのであります。
 これに対してわが聖人は信の一念といって念仏を頂いた心、つまり信心のこと。その信心が私たちに開かれた時、すべてが成就することを教えていられます。この点に浄土真宗と真宗の違いが出てくるようであります。聖人にとっては、念仏はいうまでもなく大切でありますが、私たちにとってそれを頂くということがもっとも大切なことであるといわれるのでしょう。
 観無量寿経をみますと、「光明はあまねく十方を照らしたまう」といわれています。つまりすべてが助けられているようになっているということでありましょう。しかしその中にあって本当に助けられる人は念仏する人だけである、念仏衆生(念仏する人)摂取不捨(救われる)と示されています。ところが念仏する人が何時助けられるのか、これは法然上人以前でははっきりしておりません。各祖師方のお心はどうでありましょうとも、はっきりあらわされていないのです。この点を聖人は歎異抄で「念仏をもおさんとおもひたつこころの発る時、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とはっきりしておられるのであります。
 末灯鈔の名で聖人のお手紙をあつめたものの中に「真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す、この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と教えていられますが、助かる時がはっきりしないと来迎(仏さまが死ぬきわに迎いにこられる)をたのむということが出てくるのでありましょう。しかし聖人の開かれた真宗は、念仏を頂いたその時に救いは成就するのであります。
 一念ということを言いかえますと、廻心ということになります。廻心は南無阿弥陀仏に会うて全く心がかわったといこと、今まで間違いないものを考え、本当だと信用していたものが、とんでもないものであったと知られること、それは同時に間違っていた自分の心に対してとんでもない心であったと頭が下がることでもあります。だから懺悔という言葉とも合わせて廻心懺悔ともいうのでありましょう。
 廻心というのは心のかわることでありますが、これは人間が生まれかわることをあらわします。心が変われば世界は変って参ります。それは私たちの住んでいる世界は私たちの心がつくっているからであります。迷いの心に迷った世界であり、目ざめた心には浄土が開かれます。往生というのは、廻心によって浄土が開かれることで無量寿経では一念によって浄土が開かれることを即得往生とあらわされていますが、この一念多念証文では即ということを「時をへだてず、日をへだてぬなり」と真宗の面目をまざまざと示していられるのであります。信心がただちに人間の問題の一切を解決する、これが真宗の面目でありましょう。
 
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