第26回 一念多念文意
 
(3) さとりといわず信心と
 
 更に一念について親鸞聖人は、往生を得るというのは正定聚に住することであるといわれます。正定聚というのは、必ず涅槃(さとりの境地)を完全に実現することが約束された人々の集まりということであります。お釈迦さまのあとに、次に仏となってお出ましになるといわれている弥勒菩薩という方がありますが、一念をおこすことのできた(信心をえた)人々は、この弥勒のような意味があるとまでいわれています。一念(信心)が私たちの心からおこったのなら、そういうわけにはまいりますまい。しかし聖人のいわれる信心は、凡夫のうえに開かれた如来のお心であります。だから大という字をつけて大信心といわれております。
 よく禅宗の方なんかが、真宗の信心が大切だというが、信じてさとるので、信というのはさとりのほんの入り口にすぎない。そんなもので終わるなら本当の仏教になるぬ、さとってこそ初めて仏が成就したといえるのでないか、と言われます。さとるために先ず信ずる、たしかにそういう考え方ありましょう。しかし聖人のいわれる信心は仏のお心(さとり)が人間の上に実現したということで、信は始めであっても終わり(さとり)からの始めであり、もうそこに如来があるということが信心の大切な意味だと思います。
 仏のさとりを頂いたといっても、勿論その全部というわけではありません。しかしほんの一部分でありましても、やはり仏のお心が実現したのでありまして、人間の迷い心とは質が違います。なればこそ信心を頂いたことがお助けになるのであります。仏のお心が人間に宿った、しかしその人間があくまで煩悩をそなえた凡夫であります以上、さとりなどとは申せません。それで信心というのでありましょう。さとりなどと若しいわれるなら、凡夫ということを全く忘れたことにならないでしょうか。さすればそのさとりは観念、ただそう思い込んでいるだけということになります。だから聖人はどこまでもさとりとはいわれずに、信心といわれますが、それが仏のお心であるという意味で信心を頂いたものは弥勒に同じといわれるのであります。
 観無量寿経の中で、念仏する人は分陀利華であるとお釈迦さまが申されております。この言葉を、一念を得た人の姿をあらわすものとして聖人はここに引かれていますが、分陀利華というのは蓮華のことでありますが、蓮華のような人というのを言いかえて、最勝人などといわれていますが、昔から真宗で信を頂いた人を妙好人と呼ぶのはここから来ています。妙好というのはこのもしいということで、これは仏からご覧になってこのもしい人ということなのでしょう。考えてみると社会は濁り、その中に住んでいる私たちの心も煩悩で濁っています。これは一面こういう世界に住んでいると濁らざるを得ないということでもありましょうか。生きていく上に煩悩をおこさずにはおれないということもあって、別に趣味で煩悩をおこしているわけでもないでしょう。しかし信を得た人はこのような濁りに在っても決してその濁りにしみることのない、けだかいものがはたらいています。それはやはり仏のお心に違いありません。それがこの濁りの中にけだかく咲きつづけるのであります。
 
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