第30回 一念多念文意
 
(7) 日柄、方角は皆外道 〜お守り、おふだ、うらないも〜
 
 「多念をひがごとと思ふまじき事」の中で、更に親鸞聖人は、「一念多念のあらそひをなす人をば異学別解のひとと申すなり」といわれています。そして更に異学別解について詳しく説明を加え、最後にこれらは結局自力であると結論を下していられるのであります。
 先づ異学について「異学というは聖道、外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日(きちにち)、良辰(りょうしん)をえらび、占相(せんそう)、祭祀をこのむなり、これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむなり」といわれています。
 異学を仏法と外道の二つに分けられたのでありますが、余行(念仏以外の実践)を修し、余仏(阿弥陀仏以外の仏)をたのむのは、仏法であっても仏法によって人間の思いをとげようというもくろみがかくされています。仏法の形をしていてもその心は仏法ではありません。仏をたのむ形をしていても、結局はわが心をたのんでいるのでありますから自力であります。
 外道になると吉日、良辰をえらぶといわれています。これは日のよしあし、年まわり、方角のよしあし、そういうことに心をかたむけることであります。占相は占い、人相、家相など八卦をみてもらうこと、祭祀はお祭りをして神さまに祈ることであります。交通安全のお守りもこれに入るでしょう。こういうことは昔の印度にも盛んでありましたが、現在の日本でも盛んに行われています。科学が発達すれば迷信は無くなるように考えられていましたが、人間の迷い心は科学でも解決がつかないばかりか、コンピューター占いなどと、科学を応用したものまで出てくる始末であります。
 これらは結局、人間の心が、都合のよいことが好きで都合の悪いことが嫌い、こういう心でかたまっているために、何とか都合よくなろうとする心のもがきがあらわれているのでありましょう。日や年まわりや方角に、よしあしということは無くても、都合の悪いことから逃れ、何とか都合よくなろうとする心が、有りもせぬよしあしをつくっているのでありましょう。当るも八卦、当らぬも八卦といわれるあやしいものを信じたり、拝めば都合の悪いことから逃れさせ、望む通りにしてくれる神さまがあると思うのも、都合のよしあしに引きまわされている心の迷いであります。
 一念多念は信心の問題でありますが、一念多念のあらそいをするのは、結局信心の意味が分からないからでしょう。つまり信心を如来のお心預けぬために、人間の心の或る状態だと思うのでありましょう。それは他力と言いながら結局自力におちこんでいるのでありまして、仏法も仏法でなくなり、悪くすると外道におち込む、こういうことを示していられるのだと思います。別解については次に申しましょう。
 
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