第33回 愚禿鈔
 
(1)其底にある痛烈な懺悔  〜親鸞聖人独自の読みかえ〜
 
 この書は親鸞聖人が吉水の法然上人のところにおいでになったころ、つね日ごろ上人から教えを聞かれて大事な点を控えておられたようです。その控え(今でいうノート)が後にまとめられたものだともいわれています。そういう風に考えてみると聖人のお作りになったものの中で非常に変った形のお聖教でありまして、全く覚え書き風のものと申せましょう。
 この書は上下二巻に分かれていますが、上巻にも下巻にも同じお言葉が巻頭にあります。
 賢者(けんじゃ)の信を聞きて、愚禿(ぐとく)が心をあらわす。賢者の信は、内には賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内には愚にして外は賢なり。
 これはこの書を愚禿鈔となづけられたお心をあらわされたものであると共に、この書をお作りになった動機もうかがえるようなお言葉だと思います。そしてこのお言葉の内容を一言でいいあらわせば、法然上人は聖人御自身の鏡であるということでありましょう。
 「賢者の信を聞いて愚禿の心をあらわす」これは法然上人の御信心をうかがい、頂いた心を明らかにしようということでありましょうが、ここには同時に深い懺悔の心があらわされております。「賢者の信は内は賢にして外は愚なり」法然上人の御信心は、内にはまことに深く鋭いものを持っていられるけれども、外には自ら愚痴(ぐち)の法然とか十悪の法然とか仰せられている。まことに尊く仰がれるお姿であるといわれるのでありましょう。
 このお姿を仰いで知らされることは全く反対の自分の姿であるということ「愚禿の心は、内は愚にして外は賢なり」自分の心は内面は浅い心しか抱えていないにもかかわらず、外面はいかにも深い心をもったかの如く装っている、こういう深い懺悔が法然上人を仰いで告白していられるのであります。
 善導大師のお言葉の中に「外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現じて、内に虚仮(こけ)を抱くことを得ざれ」というのがあります。これは外にいかにもさとりをすまし、一生けんめいに道を求めるような姿をして、内にうそいつわりの心を懐いていてはいけないということ、外が真実であるならば内も真実でなければならないということでしょう。これはもと漢文ですから漢字ばかりですが、普通の読み方をすると、こうなります。
 ところが親鸞聖人はこのように読まれます。「外に賢善精進の相を現ずること得ざれ、内に虚仮をいだけばなり」外が真実であるならば内も真実であるならば内も真実でなければならぬというのではなく、人間には真実はないのだという深い自覚で読まれたものであります。そして却って真実はないのだという自覚こそが自覚としてあらわれたことであって「愚禿鈔の心は、内は愚にして外は賢なり」といわれるおことばこそ、最上の賢である如来の自覚のあらわれでありましょう。
 
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