第5回 和讃
 
利己主義をこえて 信心のある暮らしの“歌”
 
  前回は正信偈についてお話し致しましたが、その正信偈に次いで、おつとめの中には念仏にそえて和讃というものが組みこまれております。正信偈の偈ということは漢文によるうたであり、それに対して和讃は日本調のうたであります。宗祖には沢山のうたがあり、漢文のうたは三つありますが、日本調のうたは三帖和讃(後に一帖づつ詳しくお話ししますが)を中心に一連の和讃が非常に多くつくられております。
  私たちが本願という根本のいのちに遇うて、そのいのちが私たちを大きく揺り動かしてくるときに、そこに生れてくるものは大きな感動であります。人間は本願に遇うた時に、はじめて理屈や算盤を越えさせられるのです。理屈にとじこめられ、算盤に縛られていた自分がはじめてそれを越えることが出来た、この感動がうたを生み、生活の全体がリズムを持って来るのであります。信仰のない生活は散文的で、ばらばらの生活、そしてやがて世帯じみ、うすよごれることでしょう。宗祖が本願に遇われた深い感動、それが偈となり和讃となったのであります。
  三帖の和讃を通じての全体の趣旨は、冠頭和讃というのが二首、一番最初にかかげられていますが、それによってうかがうことが出来るようであります。「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」本願に遇うた信心は、私を捨てさせるところに大きな意義があります。個人生活に救いはありません。個人を超えさせられるのが本当の救いであります。私は私のためにあったのではない。私以上のもののためにあったことに気づき、本願に救われて本願を生きる、これが仏恩報謝であります。人間は自分の力で私を捨てることは出来ません。マルクス主義の実践も、やはり徒党のために苦しんでいるのは、私というものが捨てられない証拠でありましょう。本願に遇うた信心だけが、どんな利己主義者であろうと、喜んで私を捨てることの出来るものであります。
  「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」私が私以上のものに生きる大きな喜びは、同時に深い懺悔によって裏づけられています。誓願不思議をうたがうのは私に閉じこもることであります。自分が捨てられないという深い懺悔、懺悔を通じて如来の御恩をあらわす、これが三帖和讃全体のお心であろうと思います。
 
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