「罪と滅罪                      池田 勇諦 氏 (2006年3月11日 信道講座)
■はじめに
 今日は信道講座のご縁をいただいたことでありますが、今ほどご案内下さったように、「罪と滅罪」ということで学ばせていただこうと思うわけでございます。そこで、どうしてこういう題を提出させていただいたかということを、まず申しあげたい。それは、近年と申しますか、特に最近、多発する悲惨な犯罪、事件であります。殺人、強盗、詐欺、横領、いじめといろいろな問題が連日のように報道されてございます。中でも、親が子を殺す、子が親を殺す、夫が妻を殺す、妻が夫を殺す、そういう事件を見聞いたしますにつけても、一体世の中どうなったのかと。おそらく皆さん方も言葉を失っておられることだろうと思うのであります。
 そういう状況の中で、人が犯す罪というものを、仏教、私どもの真宗仏教においてはどのように捉えているのか。その辺のことが最近改めて問われていることでございます。
 これはまだ先月のことなのですが、山陽教区、姫路に教務所がございますが、その山陽教区に教化研究会という組織がございます。例年寄せていただいて、もうこれで二十年ほどになるかと思いますが、皆さんと学ばせていただいています。  実は、今年、その研究会からいただきました課題がこの問題だったのです。人の犯す罪というものを浄土真宗はどのように見ているのか、また関わっていこうとしているのか。もう一つ踏み込んでいえば、ではそういう罪を犯した人を罰せよと説くのか。そうでないならば、罪の償いという問題をどのように考えているのか。償わなくてもいいというのか。一体そこらはどのような姿勢をとっているのか、と。
 さらに申していけば、罪を償うということが私たちの日常の感覚からいいますと、それがそのまま罪滅ぼしといいますか、罪が帳消しになることだと。だから償えばいいんだというような受け止め方もありましょう。しかし、またそういう今日の犯罪の中で加害者も被害者も、どちらにも人権ということが指摘される。そうすると人間は尊厳なる存在だといわれるけども、ではその尊厳なる人間が罪を犯すということはどういうことであるのか。いろいろな問題が実は指摘されてくるわけです。そういうことからこの問題を今年は一つ皆で学びたい、話し合いたいということで頂戴したことであります。そういう機会をいただいたことで私も改めてこの問題の大きさ、重さ、深さ、これを考えさせていただいたようなことでございます。
 そんなことで、今日は、私たちが見失ってはならない大切な一点を皆さん方に提出して、またご意見を承ることができたらと思っております。

■罰と罪
  そこでこの罪ということには、実は罰と罪ということをまず一瞥しておかねばならないと思います。少し文字のことを申しますけれども、辞書によりますと「罸」という字は俗字だといわれていますが、「罰」をどう読むかということで、当然「バツ」と発音しています。しかしこれは慣用音といわれていまして、従来そう発音しております。ところが大体仏典は呉音で発音します。呉音では、この字を「バチ」と読みます。それからついでに申しますと、漢音では「ハツ」と読むことがいわれています。ですから普通、私たちはこの字からは「バツ」と「バチ」の二音を用いているといえるかと思います。
 この「バツ」といった場合は、悪行、悪しき行いに対する制裁、処罰です。悪い行いに対するこらしめ、これが「バツ」の意味だと。それからもう一つの「バチ」といった場合は、悪しき行いに対する神仏の下す報い、それが「バチ」だと辞書にございます。我々日ごろ用いていますけれども、そういう意味確認を疎かにしていると反省されますだけに、念のため見てみますとそういうことが言われております。
 それからこの「罪」ですけれども、意味といたしましては「つみする」という意味です。それからもう一つは「つみ」という意味。いろいろなことがいわれていますけれども、集約いたしますとこの二つでよかろうかと思われます。この「つみする」というのはどういう意味かと申しますと、実は「バツ」の意味なのです。制裁を加えるという意味が「つみする」ということです。それから単に「ツミ」と言った場合は、これは行為、行いなのです。そこにあるものは、法律に反する行為、道徳に反する行為、それから咎、過失、等と指摘されてございます。ですから「ツミ」といった場合は悪しき行為、行いです。行いそのものを指しているといえるわけであります。
 そういたしますとこの「罪」という言葉の中には、「罰」という意味があるということがわかりますね。けれども、罰と罪ということを相対的に確認しようといたしました場合には、やはり罪といった場合はこちらのいわゆる悪しき行為ですね。行いを表すといってよろしいのではないかと思います。罰のほうは申しましたとおり咎める、報いというような意味でございます。そうしますと、一つ言えることは、罪なる行い、これが因になりますね。その行いに対する報い、それが罰。だから罪と罰といった場合は、因果の関係にあるといえますね。悪しき行為に対する制裁、それが罰。刑罰とか、処罰とか、厳罰、体罰といろいろ言葉がございます。この罰の方でも、天罰、神罰、仏罰という言葉がございますけれども、そういうことでつみなる行為に対する制裁、それが罰ということになります。

■罪がわからない時代
 そう一つ見ておきまして、ではこの罪というものはどういうものであるのかということです。今ほど言葉がちょっと出ました法律に反する行為、法律的罪と申しますか。それから道徳的規範に反する行為、ですから道徳的罪と申しますか。そういうものが罪という場合の中身になっていることであります。
 今日、罪ということが私たちに分からなくなったということがありますね。聞法の場に参りますと、本当にこの罪ということがやかましく言われるのですけれども、どうもピンとこないというところまで時代は来ているわけであります。そういう状況でありますだけに、私たちが罪ということを聞いて分かるのは法律的罪でしょうね。法律に抵触する行いをした場合それは罪であると。だからこの場合の罪というのは、むしろ犯罪というような罪です。そして少し物事を考えるといいましょうか、そういう姿勢のある方ですと道徳的罪ということが微かにでも思われてくるということがあると思うのです。この場合ですと、これはむしろ罪悪という悪、善悪の悪にあたるような事柄であろうと思うわけです。
 そこで少し言葉を出したところで申しますと、この法律的罪、正直言って現代の人間はこれしか分からないということがあるのですけれども、これは合法性を持っているわけなんです。どういうことかと言いますと、法律に抵触することをしなければ何をやったってかまわない、そういう形での合法性です。法律に違反しなければ何をしてもよいという意味での合法性です。だから現代というのは法律的罪しか感覚できませんから、そういう合法性に立っている。その色彩が非常に強い。ということは、この場合、行為の基準というものがどこにあるかというと法律という外にある。ですからその基準に抵触しなければ何をしたってかまわないという生き方になっていくのです。
 確かに、法律という外なるものに人間の行為の基準を見るということは、一つの合法性ではあるのですけれども、そこでは道徳性が欠如するという問題があります。人間は理性的存在だといわれます。理性的存在ということは言葉を変えれば、いわゆる良心、良心的存在です。人間には良心というものがあるだろうと。良心というその面での反省といいますか、そういうものがこの法律的罪という合法性のところでは欠落しているんじゃないかと。法律にさえ触れなければ何したって自由だと開き直っていくようなあり方が出てくることは、そこに今一つ内面性というか、反省といいますか、そういうものが欠落しているからでないか。人間である限り理性、良心を持つならば、良心に恥じない行いをしなければならない。自分のやっていることが、良心に恥じない行為になっているかどうかという自分自身の内面に対する問い返しですね。それがその第一の段階では抜けているのです。その抜けているところが一つ問題になってくるところに、本当に自分のやっていることに後ろめたさは一切ないと、おおみえきって言えるような自信というものはない。何かどこかに後ろめたさを感じないではいられないと思われてくるところに、この道徳的罪というものが一つ出てくるわけでありましょう。
 法律的には罪を犯していないけれども、道徳的規範に反する罪悪を自分は犯しているということが、少しでも反省といいましょうか、思われてくるところにこの罪があるわけです。要するに私たちにとって分かるのはこの二つなのです。罪といわれた場合、感覚できるのはこの二つだけです。ところが、先に少し申し上げておきますと、どういう表現がよろしいか惑いますけれども、それは宗教的罪です。その内実は宗教的真理に違背する自らの行為、行いです。そのことが宗教的罪として今一つ指摘されねばならないことになってくるのです。
 それで、さきほど言いましたように法律的罪の場合では、人間の行為の基準が法律にあるわけです。法律に合っているか、逆らっているかという意味で基準は法律にある。それからこの道徳的罪の場合は、行為の基準というものが理性にある。つまり良心です。すると宗教的罪というのはどこに行為の基準があるのか。このことを考えてみますときに、「いのち」という問題になりましょう。宗教的罪ということをいう場合の我々の行為の基準は「いのち」である。それをより具体的にいえば実は本願なのです。本願に背く罪というものが宗教的罪と説かれてくるのです。その辺のところがとても大事なところですけれども、それだけに私たちに分かるのは前の二つです。罪ということをいわれて分かるのは前の二つですね。

■根本の罪
 それでは仏教は、人間の犯す罪をどういうふうに見ているのか、捉えているのか、そこへ一歩踏み込みましょう。そこで注目されますのは、何と申しましても『大無量寿経』が説く「五逆・謗法」の問題です。阿弥陀の本願の上に端的に示されている罪でございます。すると、今申し上げた前の二つの罪、これは「五逆」になるのです。と言うことは仏教は、人間の犯す罪というものを「五逆」という形で捉えています。人間は「五逆」の罪を犯す存在であると。それは言うまでもなく煩悩具足の凡夫ですから、業縁次第でそれらを犯さずには生きられないのが人間存在だと。
 この「五逆」ということは、『教行信証』「信巻」に善導大師の『法事讃』(真宗聖典二七七頁)等が引用されています。そこを見ますと「五逆罪」ということが指摘されてございます。「三乗の五逆」「大乗の五逆」と、この二つが指摘されているのですけれども、中でもこの「三乗の五逆」、「小乗の五逆」といわれるほうが、いつも私たちが習っているものであります。
 けれどもその「大乗の五逆」を見ますと、実は、第四番目に「小乗の五逆」が全部含められているんです。だから「小乗の五逆罪」というものを包んで更に展開しているというところに、「大乗の五逆」の凄さがあるわけですけれども、「五逆」そのものの表すところは、この「小乗の五逆」がよく示していると思います。
 ご承知の通り、父を殺し、母を殺し、それから和合僧を破り、阿羅漢を殺し、仏身より血を出だす、この五つが言われてございます。これは集約しますと、「恩田」と「福田」。恩田に逆違し、福田に逆違するということで、この「逆」の字が使われているのですが、その「恩田」というのは何を言っているかといえば、五逆罪の前の二つなのです。父を殺し、母を殺し、これが今日の私の存在の根本になっているわけでありますから、その父母の恩恵というものが「恩田」として挙げられる。それをないがしろにする。それに逆違する。
 それから後の三つ、和合僧を破り、阿羅漢を殺し、仏身より血を出だす。前の父母を世間といたしますと、後の三つは出世間といってよかろうと思います。つまり私が本当に私を成就する上になくてはならない存在、つまり仏道といってよいわけですが、仏道を成就するためにはなくてはならないはたらき、それが後の三つです。それに逆違すると。だから「恩田」「福田」に反逆するところにこの五逆罪ということがいわれるわけです。
 そうしますと、先に申しました法律に抵触するという形、つまり犯罪ということになりますと、実質は親を殺す、師匠を殺すというような行為になる。ところが、行動化されたことだけが五逆なのではなくて、道徳的レベル、つまり内面性において私たちは五逆を作らずしては生きていけないんじゃないか。我が身に振り返りますと、手足を持って親を殺すということはしなくても、内心ではとっくに親を殺していると。幾度親を殺しているか分からないということが言われます。その意味において私たち人間がこの世に生きる限り、この「恩田」と「福田」に逆らう罪、これは犯さずには生きられない存在なんだと。縁が来ればいつでもそれをやってのけるのが煩悩具足の凡夫なんだと仏教は捉えているのです。
 だからその意味において私たちは罪人です。そこをまず一つ押さえておかねばならないのです。すると、その五逆に対して「謗法」というものがありますね。これは法を謗ると書いてあります。どういうことを言うのかと申しますと、今繰り返していますように人間は五逆の罪人として生きているのだ。けれども、仏はそういう私たちの罪を罰するんじゃない。処罰されるんじゃない。どこまでも大悲して摂取してやまない、それが如来のお心、本願なのです。すべてのものを摂取したい。それが如来の大悲であります。
 にもかかわらず、五逆を犯して生きている私たちはそこで何を思っているかといったら、善人は褒められねばならない、悪人は罰せられなければならない、という世間の善悪の観念に立って見ているのですね。そのことを「謗法」というのです。つまり如来の大悲心というものをないがしろにしているありかたのことです。ここが一つ今日のお話の眼目のところなのですけれども、これが容易に私たちには分からないのです。
 今申し上げていることから言って、仏教は、浄土真宗は、罪を犯した人を罰する教えじゃないんです。ということは、如来の本願というのは、どんな人をも摂取してやまない。このことが一番端的に語られているのがなんといっても『歎異抄』です。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」。善悪をえらばないというのですね。ということは、私たちというのは縁しだいで何をやりだすか分からない存在。だからそういうご縁しだいで何をやりだすか分からない人間の行為は、救済には関係ない。善いことをしたから救われるのでもない。悪いことをしたから助からないのでもない。そんな行いに関係ない。それが本願なんだと。つまり無条件の救済です。それが阿弥陀の本願です。古くから聞法なさっている方はそういうことは聞いていらっしゃいますね。阿弥陀の本願というものはご注文はないのだと。そのままの救いだと。言葉だけは皆知っているけれども、真実というのは容易に分かる沙汰じゃないですよね。今言ったことからすると一番皆さん方、感じていただけるんじゃないですか。
 阿弥陀の本願は我々が善いことをしたから助ける、悪いことをしたから助けられない。そんなことじゃない。でも、そんなこと皆さん方すっと入りますか。そんなこと言ったら娑婆が収まらないじゃないかと。この根強い人間の善悪の考え、つまり善は賞せられ悪は罰せられるという人間の善悪の観念。この人間の善悪の観念に立つことは、善悪を選ばないとの法を否定することなのです。だから「謗法」だと。それゆえに、この「謗法」を「仏智疑惑」というのです。これが『大無量寿経』のご説法からいたしますと、「本罪」。「本罪」という言葉が出ていますが、根本の罪だといわれる。この根本の罪が「謗法」、つまり「仏智疑惑」のことです。お互い念仏を聞かせていただいて、私はお念仏を信じさせていただいていると。そう皆思っているんですね。本当に私たちは教えに遇うと自分のめでたさ加減がよく知らされます。
 いま私、秋安居ということで各教区を回らせていただいていますが、この間、富山へ行きましたら、あるご門徒の方からこういうことを言われました。これはよく聞くお尋ねですけれども、この間もそのことをおっしゃった。「親鸞聖人の教えで他力ということを言われますけど、他力ということがどうしても分かりません」と。それで私は思わずその方に言ったのです。「それはあなた反対でしょう。他力が分からないんじゃない。自力が分からないんでしょう」と。そしたらキョトンとしてみえました。皆さん方どうですか。そう思っていらっしゃる方が見えましたら私はそれが言いたい。あなたは他力が分からないんじゃない、自力が分からないんでしょうと。自力って何ですか。皆さん方どうそこを聞いてらっしゃるんですか。自力というのは何を言っているのか。
 親鸞聖人の『一念多念文意』の釈文は、本当に読ませていただく度に言葉を失います。私は自力ということの押さえはこれだと強く感じさせられます。
  念仏をしながら、他力をたのまぬなり。(中略)自力というは、わがみをたのみ、わがここ
  ろをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
   (『真宗聖典』五四一頁)
 自力という力があるという話じゃないんです。自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ在り方をいうのです。だから念仏をしながら他力をたのまないのです。何をたのんでいるかというと、自分の考えをたのんで生きている。それを「仏智疑惑」というのです。私はご本願を信じておりますと言いたいかもしれないけども、それがそのまま疑を引きずっていることなのですね。
 なぜかといったら今言ったことなんです。ご本願がかたじけない、お念仏がありがたいと言っているけれども、私の立っているところは何か。自力です。わが思い、わが考えを頼りにして生きているわけです。念仏をしながら他力をたのまない。それを「謗法罪」と言うのです。

■死刑制度を真宗の教えに尋ねる
 これはこの間、三重教区のある推進員の人がおっしゃったので一層そのことが確かめられなければならないということを思ったのです。それはご本山から毎月全寺院に対して雑誌が出ています。普通「官報」と言ったりしているのですけれども、『真宗』という雑誌がございます。あの二月号の始めのところに、総長名で死刑制度を見直そうではありませんか、という真宗大谷派の態度表明が出ておりました。お読みになった方はご記憶にあるかと思います。私が今言いたいことは、この死刑制度を見直しましょう、問い直しましょうという提言、これ皆さん方、本当に受け止められますでしょうか。自問したいことです。
 それでその推進員の人は何と言われたかと言いますと、「同朋会でずいぶん聞法さしてもらって、いろいろ聞かせてもらってきたけど、あの死刑制度見直しというあれだけはどうしても私は分からない」と。そういう問題なんですね。皆さん方一度お考えになってみてください。その『真宗』に出ておりました声明文というのは、昨年の暮れに死刑が確定していた四名の人に刑が執行された。それが十二月二十五日でした。それで二十六日付で総長名の声明が出されたのです。今回のこの声明文は大変丁寧な形で作文されておりますので、私は一歩でも半歩でも問い直させていただくご縁にならないかなと、ひそかに思っているのです。
    (中略)この一年三ケ月間、死刑の執行が停止され、死刑制度に関する論議の必要
  性が広く社会に喚起されつつあったことに鑑みれば、まさに今回の執行が、死刑制度の
  論議さえも否定し、その温存のみを意図したものであると思わざるを得ません。
  私たちは、たとえどのような罪を犯した人間、また未だ反省や悔悟の気持ちを表現する
  ことにいたらない人間であっても、それを排除することなく、かけがえのないいのちとして
  尊重することをとおして共に生き合える世界を、阿弥陀如来の本願として教えられていま
  す。私たちはその根源の願いに立って、一人ひとりの人間が、いのちの尊厳において見
  出される社会の実現を願うものであります。
   現在、私たちの国では、人間の持つ限りない欲望によって、いとも簡単に人が殺される
  という事件があとを絶ちません。被害者遺族の悲しみ、怒り、憎しみは、どのような言葉を
  もってしても表すことができないほど深く、激しいものがあります。殺人という罪を犯した者
  は、そのいのちを絶つことをもって償うべきであるとの心情は、ご遺族とすれば当然と言え
  るかもしれません。また、遺族を思いやる心にあいまって、連日、報道される事件の残忍さ
  も死刑執行、死刑制度の存続を願う世論の高まりにつながっているのでありましょう。
   しかしながら、私たちは、どうして犯罪を起こしたのか、どうして罪を犯す人間になってし
  まったのか、ということについてはあまり考えることはありません。そして、自分自身は決し
  て罪を犯すことがないと無意識のうちに思い、犯罪者を憎み、極刑を望みます。こうした応
  報思想は新たな悲しみを生み出すことはあっても、決してそれによって救われることはあり
  ません。はたして遺族の心の傷が真に癒え、罪を犯した者もが救われるとはどういうことで
  ありましょうか。
   私たちは死刑制度の存続を支持する世論がいよいよ高まっている今日、死刑に関する
  意見や立場の違いを認め合いながら、遺族の救済のあり方を含め、この制度について論
  議していく場を開いていかなければならないと考えます。(後略)
   (「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」 『真宗』二〇〇七年二月号)
 こういう言葉で終わっているのですけれども、そういうことを本当に話し合える場を一つ持とうじゃありませんかという呼びかけになっているわけです。それで今申していました通り、こういう死刑制度問い直し、見直し、ないしは反対と言う人のことが出ますと、決まって「死刑制度をなくしたら、凶悪犯罪が増える」という意見が出てまいります。かと思いますと反対に「死刑制度が行われている現在ですらこのような凶悪犯罪が絶えない実態なのだから、それがなくなったといって増えるということは言えないんじゃないか」というご意見もございます。そういう問題は、みんな私たちの人間を立場とした世間の善悪観念です。
 そうすると私たちがこの問題を真宗の教えに尋ねる、何故そのようなことをするのか。もちろん私たちは親鸞聖人のお流れをいただいて、真宗の阿弥陀の本願念仏の教えを聞かせていただいている身であるかぎり、どんな問題もその教えに一つ問うということが私たちの基本姿勢であります。その意味で阿弥陀の本願に照らされるとき、先ほどから言っておりますように私たちは常に世間の善悪観念に立っている。世間の善悪観念に立つということは、阿弥陀の本願を否定するありかた。「仏智疑惑」ということです。「仏智疑惑」、これが人間の根本の罪だと。このことの気付きですね。ものすごい問題だと思います。私たちは安易にお念仏を聞いていないか、ご本願を聞いていないか。この「本罪」が明らかになったか、がきびしく問われているのではないか。まことに「念仏をしながら他力をたのまぬなり」です。「謗法」の罪は「仏智疑惑」の罪なのです。

■罪は償えないもの
 そうすると『大無量寿経』の言葉はどうなっているか。「本罪」が消えてなくなるのか。違うんですね。「深自悔責」という言葉に続いてくるのです。「深く自ら悔責す」と。つまり懺悔です。すると、懺悔ということが問題になります。これも一言しなければならないのですけれども、人間の、つまり私たちの善悪の観念からいえば、いくら真面目に自己反省したところで所詮は後悔です。懺悔は後悔とは異質です。後悔は人間の立場、懺悔は仏智の立場です。だから、私たちの立場でどれほど自己反省を誠実にしたといったって所詮は後悔なのです。
 それをいうとどうですか、この頃テレビを見ていますと、毎日のようにトップ連中の方がずらっと前に並んでお詫びなさっています。何か日常化してしまったという格好です。
 例えば、なにやら大臣が暴言と言うのですか、「女性は子どもを産む機械」だと。その後、あの大臣は連日のようにお詫びをしておられました。申し訳なかったと。そればかりです。皆さん方あれを聞いてどう思われましたか。私はあのニュースを見ていて学ぶことは、誰も謝ってくれと言っているんじゃないんですね、真実は。あなた自身がどこに立っているかということを問うていることでしょ。自分自身の立脚地が問われているのです。それをいつでも外に向いているわけです。女性に向いているわけでしょう。だからお詫びばかり。また縁が来ると同じことを言います。体質ですから。お詫びは後悔です。シマッタです。後悔は自己過信ですから。どこまでもあなたはどこに立っているのですか。どこにお立ちなんですか、の問題です。
 ということは、いま罪ということで申しますと、罪は償えば除罪ではないか。償えばそれで罪は帳消しになるんじゃないかと。これは我々の日常の善悪の観念でしょう。けれども罪というものは本来償えないものですね。言葉としては償うと言いますけれども、本質からいえば償えないものを罪と言うのです。
 この前、福井県鯖江市の西本願寺のお寺のご住職なのですけれども、そのご住職は学生時代から詩を専攻なさっておりました。卒業後も地元で同人の場で詩作活動をなさっているご住職です。その詩が時々まとめられると私に送ってくださるのです。この間も『大きな手の中で』という書名で一冊の詩集を刊行されました。その詩というのは散文詩ですから、普通の作文のような詩です。だから非常に詠みやすいということがございますけれども、その中に「嘘の跡」という散文詩がございます。これを読んだとき、私はこれだなということを感じたのです。
  嘘の跡 あるところにひどく嘘をつく息子がいた。 それを父が悲しんで息子が嘘をつくたびに涙とともに座敷の床柱に釘を打ち付けた。 長い間には床柱に打ち付けられた釘はたくさんの数になった。 それを見た息子はさすがに嘘をつかなくなった。 そして本当のことを少しでも言うようになった。 父は喜び、息子が本当のことを言うたび釘を一本づつ抜いていった。 床柱に打たれた釘が全部なくなったとき父は言った。 お前が本当のことを言うようになったので、この通り床柱の釘が全部なくなった。 けれども息子は、 でも釘の跡は消えることはありませんと泣いた。
 こういう詩です。打った釘は抜いてなくなっても釘穴は残るのです。罪というものは償えない。ということは、消えてなくならないからこそ罪と言うのです。消えてなくなるなら罪といわないのです。そうでしょう。例えば、事故を起こして人様が亡くなる。詫びたから、その責任を償ったからといって、亡くなった方が戻ってくるんでしょうか。いつもご遺族の方はおっしゃいますね。「いくら保障のお金をもらったって息子が生き返ってくるわけではありませんから」と。その意味で絶対に償えないものですね。
 はじめに戻りますけれども、如来の本願というのは犯した罪を罰するというのではありません。どこまでもそういう罪に「深自悔責」です。罪の自覚に導くのです。この罪の自覚だけがなくならない罪の現実を、本当に引き受けて生きていく積極的な歩み、生き方になると。ここなんですね。仏教、真宗の教えは罪を罰する教えではございません。どこまでも罪の自覚に私たちを立たせる教えです。だからこの「謗法」という、「仏智疑惑」という私の本罪、根本の罪に私を導き入れてくださる。ですから懺悔ということは人間を立場とした後悔ではなく、実は親鸞聖人がおっしゃった「転ずる」ということなのです。この現実に出会った事実を無駄にしない。無駄にしないという生き方だけが、本当にその罪を持ったままで罪を功徳に転じていく生き方だと。だからこの懺悔という世界は、現実の罪を功徳に転ずるということ、功徳に転ずるその智慧に立つ、それを懺悔と言うのです。
 ですから自分のしたこと、自分の出会ったこと、そのことを無駄にしないことだけが罪はなくならないままに、その罪を乗り越えていく生き方だと教えられます。

■本当の人間の悲しみ
 いま申し上げてきたことの確認でございますけれども、ご案内にも書かせていただきました『正像末和讃』の一首でございます。
   罪業もとよりかたちなし
    妄想顛倒のなせるなり
    心性もとよりきよけれど
    この世はまことのひとぞなき (『真宗聖典』五〇九頁)
 親鸞聖人のご和讃としては大変異色なものと言わなければならないかもしれませんけれども、実はこれは『正像末和讃』の初稿本と言われているものです。現在は高田派のご本山に所蔵されております。高田派の顕智上人という方が書写されたものといわれておりますけども、そこにこの和讃が出ているわけでございます。  ところが、『正像末和讃』の草稿本と言われているものは同じ専修寺に所蔵されているのですが、親鸞聖人のご真筆として国宝本になっているテキストでございます。そこにどう出ているかというと、これには驚きを感ずるのですけれども、
   罪業もとより所有なし
    妄想顛倒よりおこる
    心性みなもときよければ
    衆生すなわち仏なり
 このように書かれているのです。「所有なし」というのは一般読みしますと「ショユウ」でありますけれども、罪業は本来実体はないということ。「心性みなもときよければ 衆生すなわち仏なり」、私はこの言葉を見ると白隠禅師、臨済宗の蓮如さんと言われもしますが、白隠禅師の坐禅和讃の第一首が、「衆生すなわち仏なり」で始まっていますからそれを思い合わすのです。親鸞聖人のお立場、世界から言いますとこういうご和讃というのは一つの驚きでございます。
 ところが親鸞聖人がこれを歌っていらっしゃるということのお心は、実は先ほど来、申し上げてきました如来の大悲心の世界を讃嘆していらっしゃるのです。つまり如来はあらゆる存在をこのようにはっきりと見通していらっしゃる。信じて疑われない。これを『大経』の四十八願のお言葉で言えば、すべての人は国中の人天である、私の国の人天であると信じて疑わない、これが如来の大悲心なのです。だからこそ十方衆生に向って、「我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」と呼びかけられるのです。本来、国中の人天と徹見されたからこそ、どうでも我が国に生まれんと願えと呼びかけずにいられない。
 私はいつかここでも申し上げたと思うのですけれども、科学と宗教ということで、科学というのは何を絶対とするか、何を立場とするか、は言うまでもなく人間の「理性」です。人間の頭脳、頭を絶対にします。ここに一つ基本を置く。では宗教は何を立てるのか。人間以外の「他者」を絶対として立てる。
 ところが仏教はどうか。宗教と仏教はあえて私は言葉をえらびます。仏教は宗教一般ということからいえばそこには入りません。仏教は何を絶対とするかといえば「本来」をでしょ。人間の頭脳に立った話でもない、人間以外の何かを絶対として立て、それを信じて救われるんだというんじゃない。人間存在の本来、ここに一番の根拠があるわけです。それが今ご本願でいうと、十方の衆生は本来国中の人天であることを信じて疑わぬ。だからこそ、わが国に生まれんとおもえと招喚せずにはおられない。如来の眼によってみそなわされた十方衆生の本来性が、今のこの和讃に歌われているんじゃないでしょうか。その意味で私たちが人間の立場から云々する事柄ではないでしょう。「衆生すなわち仏なり」なんて私たちの言える沙汰ではございません。
 そうしますと、今日、人権ということが加害者にも被害者にも言われます。人間は尊厳なるものにもかかわらず、どうして様々な罪を犯すのか。このことが問われてくることでございます。そこにこのご和讃で申しますと、「妄想顛倒のなせるなり」とございますが、そこに本当に『歎異抄』の言葉でいえば、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」。さるべき業縁がもよおせば、人間の分別が間に合わない、犯さざるをえない事実。そういう人間の実相です。だからそこに本当に人間の悲しみというものがあるのです。そのことが、この初稿本で、「心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」と表現されている所以でありましょう。

■罪の自覚に至らしめるための罰
 繰り返し申してまいりましたけれども、親鸞聖人の明らかにされました浄土真宗の仏法は、罪を罰する教えではございません。どこまでも罪の自覚に導く教えでございます。私たち大谷派の宗門におきまして、全国の教誨師連盟というものがございます。服役をなさっている方がたへの教誨という大変大事な仕事でございます。ですから、真宗の教誨ということを考えましたときに、私は今お聞きいただいたことが一つ基本にならなければならないのではないかと思うのです。罪を罰する、責めるということじゃなくして、本当に罪の重大さに気付いていただく、それは何かというと、如来の大悲心を伝えるということです。阿弥陀の本願のお心を伝えるということが「謗法」の罪に気付くことです。「謗法」の罪に気付くということは如来の大悲心を知るということですから、これがやはり真宗教誨の原点にならねばならないということを改めて感ずることでございます。
 そういたしますと、徹底して罰ということは仏教ではないのか。真宗仏教ではこのことは一切ないのかと言いますと、これを最後に申し上げたいことなのですけれども、親鸞聖人がご消息の中に一箇所用いていらっしゃるところがあるのです。例の善鸞事件に関する親鸞聖人ご自身の決断をお述べになるお手紙のところでございますけれども、現代語訳したものでお聞きください。
   慈信(善鸞)が申している教えの様をみますに、あの様な名目は聞いたことがなく、まして
  習ったこともありませんから、私から慈信に密かに教えることの出来るわけもありません。
  また夜となく昼となく、慈信一人に人に隠して浄土のみ教えを教えたこともありません。
  もしこのことを慈信に申しながら言わないと嘘を言って隠し立てをし、あるいはまた人知れず
  人にも教えたことがありますならば、仏法僧の三宝を本として、三界の諸天・善神、四海の
  竜神八部、閻魔王界の神々等によって下される罰を親鸞の身にことごとく甘んじて受けよう
  と思います。今より後は慈信に対しては、親鸞の子であるという情を思いきってしましました。
  (『血脈文集』第二通)
 このように述べられているくだりです。善鸞は親鸞聖人から私だけがこっそり教えてもらっており、あなた方が聞いていたことは表街道、方便道ですよということを言いふらし、関東教団が大混乱に陥ったわけでしょう。それに対する親鸞聖人のご決断であります。そんな慈信がいうようなことが真だと、そんなことは全く善鸞の虚言以外の何ものでもない。決して私は嘘を申しておりません。このことが嘘であるならば今言った仏法僧の三宝を始め、八百万の諸々の神々からの罰を親鸞は甘んじて受けさせていただきます。今日から後は善鸞を我が子と思う情は切り捨てましたとおっしゃっているのです。
 ここに「罰」ということを一箇所、親鸞聖人は使っていらっしゃる。そうしますと、ここでまた一つ考えさせられますことは、確かに私たちの世間の組織体、集合体というものは、罪をなしたものは罰しなければならないという「罰」が中心になっています。ところが仏法に基づく教団、そこにおいては今申し上げてきたことから言いまして、罰でなくて罪が中心だと。罪が中心ということは罪の自覚を促すということが中心であることです。
 ところが今の親鸞聖人の『御消息』から教えられますことは、その罪の自覚に至らしめるための罰です。その人を本当に救わんがための罰がそこに言われるということがある。これが蓮如上人でいいますと、掟という問題は私はそのことにあたるのだろうと思うことです。念仏者はこれこれのことをしてはならないという厳しい一つの定めを言っていらっしゃるわけであります。仏法の組織体においては、罰はどこまでも罪の自覚に誘うためです。ということは、その人を本当に本願の世界に入らしめるための手続きとして罰が設けられる。そう言えるのだろうと思います。
 ならばそこでもう一言申しますならば、世間の罰というのはその人本人を救うことが目的というよりも、その組織体、集合体を守らんがために罰を設けるということがあるのではないか。だから個人は組織の犠牲になるということがあるわけです。これが世間じゃございませんか。だからその人本人よりもどこまでも、組織体、集合体を維持、守らんがための罰であります。ですからいつでも個人は組織の犠牲になっていく。
 けれども仏法においては、この罰ということがどこまでも個人ということ。その人自身の自覚と、その人自身の救いということが目的にされている罰である。その辺のところを私たちはよく抑えておかなければならないと思うのです。ここからも現実の教団がきびしく問われていくということが起こりますね。けれども、いまは真宗においてどのように罰ということが云々されるのかということを、その心を、私たちははっきりと押さえておく必要があろうと思うわけでございます。
 いろいろ申し上げねばならないことはございますが、私が申し上げたかった要は、今日の悲惨な状況からいたしまして、人間が犯す罪というものを親鸞聖人の教えではどのように教えてくださっているのか。そのことが一言たずねあてたかったことでございます。こういうことは翻って家庭生活におきましても、親子・兄弟・夫婦が、ガタガタやって生きているんですけれども、相手を罰するという姿勢のところでは本当に家庭が助かるというか、前向きに開かれていくということはありえないんじゃないでしょうか。そこは一つ皆さん方、お互いによくよく聞き開かせていただきたいものと思います。
 不備な点はご容赦いただくことにしまして、一応お話はそんなことにさせていただいておきます。どうもありがとうございました。
(文責 編集部)